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クワイエット・ライオットとは
クワイエット・ライオットは1975年にギタリストのランディ・ローズを中心に結成. 最初期のメンバーはケヴィン・ダブロウ(ボーカル), ランディ・ローズ(ギター), ケリー・ガルニ(ベース), ドゥリュー・フォーサイス(ドラム)の4人.
最初期のメンバー
左からドゥリュー・フォーサイス, ケヴィン・ダブロウ, ランディ・ローズ, ケリー・ガルニ
彼等のストーリーはロサンゼルスを起点に始まりウィスキー・ア・ゴーゴーなどの地元クラブで精力的に活動を重ねていく. 1977年には日本のCBSソニーとレーベル契約を結びデビューアルバム"静かなる暴動"(原題"QUIET RIOT")及びファーストシングル"反逆のロックンロール"(原題"It's Not So Funny")をリリース. 本国アメリカでの契約締結には至らないもののその存在を日本で見せつけた. 翌1978年にはケリーが脱退し後任にルディ・サーゾが加入. この年の暮れに再び日本でセカンドアルバム"暴動に明日はない"(原題"QUIET RIOTII")及びシングル"スリック・ブラック・キャディラック"(原題"Slick Black Cadillac")をリリース(この時のベースはケリーのまま).
クワイエット・ライオットが日本でリリースした2枚のアルバム
左: デビューアルバム"静かなる暴動", 右: セカンドアルバム"暴動に明日はない"
以降もLAを中心にライブを重ねていくが1979年にランディ・ローズがオジー・オズボーンに加入するためバンドを離れ, QUIET RIOTは活動を停止する. 活動停止までの4年間ついぞアメリカのレーベルは彼らに契約を打診しなかった.
ランディが離れた後もケヴィンはバンド名を自身のファミリー・ネームである"ダブロウ"に変え活動を続ける. ダブロウは1980年から1982年まで多くのメンバーチェンジを繰り返しながらスターウッド・クラブやウィスキー・ア・ゴーゴーなどでライブを続けた. この時在籍したメンバーはボブ・ステファン(ギター), チャック・ライト(ベース), フランキー・バネリ(ドラム)など. こののち30年ほどに渡って続くケヴィンとフランキーのつながりはこの頃から始まった.
1981年のダブロウのメンバー
左からチャック・ライト, ボブ・ステファン, ケヴィン・ダブロウ, フランキー・バネリ
1982年3月19日, クワイエット・ライオットの中心人物でもあったランディ・ローズが飛行機事故によってこの世を去る. この頃ダブロウはアメリカのパシャ・レコードとの契約を締結していた. レーベルの意向によりバンドは名前を再びクワイエット・ライオットに戻しデビューアルバム"メタル・ヘルス~ランディ・ローズに捧ぐ~"(原題"METAL HEALTH")を1983年3月11日にリリースする. この時のメンバーはケヴィン・ダブロウ(ボーカル), カルロス・カヴァーゾ(ギター), ルディ・サーゾ(ベース), フランキー・バネリ(ドラム). この年の5月29日, クワイエット・ライオットは延べ100万人を動員したと言われているアメリカのフェスティバル"ジ・アス・フェスティバル"にヘヴィ・メタルデーのオープニングアクトとして参加. バンドにとって数千, 数万規模の観客の前でプレイするのはこれが初めての事だった. ここから人気に火が付きバンドはブラック・サバス, スコーピオンズ, アイアン・メイデンなどとツアーを重ねる. そして1983年11月, マイケル・ジャクソン, ザ・ポリス, ライオネル・リッチーなどを抑えビルボードアルバムチャートで堂々の1位を獲得する. 結局今日に至るまでで本アルバムは1000万枚以上を世界中で売り上げる大ヒットとなっている. 1983年末から1984年初頭にはイギリスなどヨーロッパツアーも行い1984年の春より次作"コンディション・クリティカル"(原題"CONDITION CRITICAL")のレコーディングに着手する.
メタル・ヘルス~コンディション・クリティカル期のメンバー
左からカルロス・カヴァーゾ, フランキー・バネリ, ケヴィン・ダブロウ, ルディ・サーゾ
"コンディション・クリティカル"は1984年7月にアメリカでリリースされ全世界で約200万枚を売り上げるヒットとなる(にも関わらず前作と比較し"失敗作"とレッテルを貼る雑誌が多かった). バンドは9月よりアメリカ全土を回るツアーを開始. この時のセットはライトが1200個(更に独立制御可能), 3段のステージ, そしてレーザーとまさに全盛期を象徴するような豪華さであった.
コンディション・クリティカル・ツアー時のステージ (撮影日時不明)
全米を回ったのち1985年1月には待望の初来日公演を実現. 前作"メタル・ヘルス"の曲やボーナスとして"ボーン・トゥ・ロック"(原題"(We were) Born to Rock")をプレイし観客を沸かせた. 来日公演後ルディ・サーゾが脱退. サポートベーシストを迎え1985年春には南米ツアーを行う. ヒア・アンド・エイドの活動に参加後元ダブロウのベーシストであったチャック・ライトを迎え1986年7月に"QRIII"をリリース. 本ツアーにおいて2度目の来日公演を11月から12月にかけて行った. ツアー終了後レーベルやメンバーとの衝突により1987年2月にケヴィンがバンドを飛び出す. 後任に元ラフ・カットのポール・ショーティノを迎える. この年の夏ごろにルディ・サーゾがバンドに戻るもののホワイトスネイクでの活動のため脱退, 後任はショーン・マクナブ. 1987年10月このメンバーで"ジャパン・エイド2"のため来日しライブを行った. ポールを迎えた新作"新たなる暴動"(原題"QR")は1988年にリリース. 本アルバムに伴うライブはコロンビア, グアム, そして日本のわずか3箇所で10回にも満たなかった. バンドはよりブルージー路線を追求しカルロスのギターを前面に出すと言っていたが叶わず1989年夏, クワイエット・ライオットは2度目の活動停止をする.
その頃バンドを飛び出したケヴィン・ダブロウは1990年に自身のバンド"リトル・ウィメン"(LITTLE WOMEN)をショーン・マニング(ギター), ケニー・ヒラリー(ベース), パット・アッシュビー(ドラム)と結成する. 1991年初頭にショーンに代わりカルロスが加入, バンド名を"HEAT"と改める.
1991年 HEATのメンバー
左からパット・アッシュビー, ケヴィン・ダブロウ, カルロス・カヴァーゾ, ケニー・ヒラリー
1991年6月24日バンドは名前を"クワイエット・ライオット"に変更. 同年末にパット・アッシュビーが脱退し元レインボーのボビー・ロンディネリが加入. ボビーもブラック・サバス加入のため脱退しフランキー・バネリがクワイエット・ライオットに復帰する. このメンバーで1993年"テリファイド"(原題"TERRIFIED")をムーンストーン・レコーズからリリース. 最終的に2003年までバンドは精力的に活動を続け, この間に"テリファイド"以外に4枚のアルバムをリリースした("ランディ・ローズ・イヤーズ", "ダウン・トゥ・ザ・ボーン", "アライブ・アンド・ウェル", "ギルティ・プレジャーズ"). 1997年2月にはメタル・ヘルスでベースをプレイしたルディ・サーゾも復帰している. 2003年10月活動停止. ケヴィン・ダブロウはソロに転向しアルバム"イン・フォー・ザ・キル"(原題"IN FOR THE KILL")を2004年にリリースする. この時ケヴィンに見いだされライブでギターをプレイしていたのがアレックス・グロッシである.
2004年秋クワイエット・ライオットの名の下で活動を開始. この時期の主要メンバーはケヴィン・ダブロウ(ボーカル), アレックス・グロッシ(ギター), チャック・ライト(ベース), フランキー・バネリ(ドラム). バンドは2006年冬にニューアルバム"リハブ"(原題"REHAB")をリリース. 順調に活動していたものの2007年11月ケヴィン・ダブロウが自宅で遺体で発見されバンドは活動を停止する.
2010年にフランキー, チャック, アレックスを中心に活動を再開し2017年に新ボーカルジェームズ・ダービンを迎え本国でライブを続けている.
2017年3月以降のクワイエット・ライオット
左からアレックス・グロッシ, チャック・ライト, フランキー・バネリ, ジェームズ・ダービン
なおフランキー・バネリ, レジーナ・バネリ夫妻は2015年にケヴィン・ダブロウの死後バンドを復活させ活動を続ける模様を収めたドキュメンタリー映画を発売している.
クワイエット・ライオットのドキュメンタリー映画
"WELL NOW YOU'RE HERE, THERE'S NO WAY BACK"